中近現代アレコレ平和祈念探方――広島・宮島行 Aug.12-15 2007
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第十三章 空海への道
やたら木々が多いというか、ざわざわとした森の中に作られた遊歩道……というには少し険しい道のりを行きます。上り階段あり下り階段あり、
上り坂あり下り坂あり、さながら今年の7月に上ったトド山を思い出すような山道でした。とはいえ時折見える美しい海、綺麗な景色に癒されながら
歩くというところもトド山と同じであり、休み休みですが、なんとか上りました。
行って戻ってきて立て看板を見てみると(ようやく立て看板を見る余裕が出来た、というのが事実ですが)、ここは人の手が入っていない原始林なそうで、
原始猿や原始鹿もいて、これまた世界遺産に登録されたところだということを今パンフレットを読んで理解しました。もっとも、実際に行った時は時間的な
こともあって、とにかく上ったり下ったりするので精一杯だったのですが。
で、タイムアタックをしていたわけではないので、実際にどれくらい時間がかかったのかわかりませんが、ともかく凄絶な道のりの果てにようやく空海の修行した
弥山本堂、そして霊火堂までたどり着きました。
正直なところ弥山本堂の印象はやや薄く、どちらかというと霊火堂の方に色々と興味があって、こちらを見たりなんだりかんだりしていました。この霊火堂というのは
空海が使ってから1200年間ずっと燃え続けた炎らしく、先日の平和公園にともっていた平和の火もここから取られているのだと言います。もっとも、一度火事で
燃えてしまったそうですが……。
で、中に入ってみると、中央ではその炎が激しく燃え、狭いお堂の中で煙が充満して息をするのもめんどくさいしんどかったのですが、この煙の中で手にした
香に火をつけてこそ修行、ご利益、来世は浄土で極楽フィーバー。……というわけではないのですが、とりあえず煙たくて苦しかったので、とりあえず香に火がついたら
逃げるように裏口から脱出した次第です。
というわけで少しく休憩したところで、「展望台 ここから5分」とあったのを見て、「じゃあ、ちょっと行ってみようか」ということになり、さらにここから弥山の
頂上を目指して歩くことになりました。ここからは同行の方々も行ったことがないそうで、じゃあみんなで初めての景色を眺めに行きますか、ということになったのでした。
第十四章 伊藤博文への道
ひたすらに三十分間駆け上がってきた霊火堂までの道のりと違って、5分でつくとうたっているだけあって、確かにそれほど長い道のりではありませんでした。とはいえ
楽な道のりでもありませんでしたが。……いや……楽なとか、大変なとか、そういうものではないのかもしれませんね。
とにかく道中は、自然が作り出した石がゴロゴロと転がっていて、まったく飽きませんでした。
いやちょっと待て。なんだかこれじゃ、砂利とはいわないものの、せいぜいこぶし大の石ころが転がっているちょっとした岩場みたいなイメージをされてしまう。どちらか
というと奇岩がゴロゴロとあり、まさに奇岩城。海上の奇岩城。
そしてたどり着いた弥山の頂上には、休憩所があり、古い自動販売機と管理者の人間がいました。こんなところに自動販売機?
250m缶が200円とかと言うこと以前に、とにかくこんなところにそんなものがあること自体が驚きでした。どうやって持ってきたんだろう。
なんて、至極どうでもいいことなのですが、最近はそんなことばかり気になります。徒歩でしかいけないような山林の果ての灯台につながる電柱は、
誰がどうやって造ったのだろう、とかってね。
で、そこでひとまず水分をとり、人によってはキリンラガービールをとり、さらにその上の展望台へ。頂上オブ頂上。360度パノラマ的さえぎるものの何もない光景へ。
常々四方を山に囲まれたところに生き、たまにどこかに行っても四方のうちどこかがさえぎられ、最東端に行ったことこそあれ全方位さえぎるもののない場所はまだ未体験。
今日この日が天気がよかったことが、何よりも私にとっては幸運でした。天気がいい。ということは当然日陰もなく直射日光に照り付けられるわけですが、なんのその。
とにかくどの方向も見通し最高で、絶景かな絶景かな。かの伊藤博文もここまで来て「日本三景の真髄はこの眺望にあり」といった意味合いの言葉を残したといいます。つまり
今、私がこうして見ている瀬戸内の島々は伊藤博文も見たというわけで、伊藤博文がそうやって絶賛していたことを知ったのは今手元のパンフレットを見て初めて知ったことなので
その時は一切思わなかったのですが、ともかく綺麗なところでした。
ここで同行の者を扇動して、いわゆる記念写真というのを撮りました。これまた師匠譲りで、記念写真というのはあまり好きではないのですが、しかしこうでもしないと
恐らく人間を撮れずじまいになってしまいそうなので、思い切って私も写ってしまいました。
とりあえず今回の数少ないポートレート、というかスナップ、というか人間が写っている写真ですね。これを撮影して帰ってきました。帰り道はスッ転んで谷底まで落ちて
いかないよう慎重に慎重を期して歩きました。最年少の弟者はとっとと駆けていきましたが、私はやはり命の次に大切なカメラもありますし、ゆっくりゆっくりとね。それでも
行く時よりも帰り道の方が早かったのは、体感だけではありますまい。
第十五章 激しい夜から……静かな夜へ
この日は宮島大花火大会だったかなんだかといったイベントがあり、日が高いうちからテキ屋・陣取りの人々などでにぎわい始めておりましたが、山を降りきった頃には
浴衣を着た女性から外国人から、そのまま瀬戸内海に落ちそうなくらいたくさんの人々でごった返していました。
それでもちょうど引き潮の時間で、さっきまではたっぷりと水につかっていた大鳥居が、今では歩いていけるくらいになっており、あふれたわけではありませんが、たくさんの
人々がごった返していました。そのために「海側から見た本殿」は人がたくさんいて、あんまりいい感じではありませんでしたが、大鳥居は逆光が想像以上の効果を出し、何やら
神々しい感じさえするような佳作に仕上がったような気がします。
まあ王道というか、ありがちというか……よくありますよね、観光マップとかにね。だからその分、たとえば私がプロカメラマンとかだったらありきたりと言われてしまう
でしょうが、そこはほら、私はアマチュアですし。とりあえず綺麗に取れたからいいじゃん、って。故・土門拳さんにぶん殴られそうですが、あえてそういいきってしまう
ことにしましょう。はい、次の話題ね。
たぶん平時の人口密度も、私の住まう盛岡なんぞよりは格段に多いのでしょうし、今日はお祭りと言うこともあって、かなり気合を入れないとあっという間にはぐれて
しまうため、歌の文句ではありませんが同行の者たちはそれぞれに手をつなぎ、私はそれを後ろから追いかけることに。そして今まさに復員船の如く人々がぎっしり詰め込まれた
船を、またプライベートな船を持っている方が洋上に浮かぶ光景を、忙しく船内を駆け回りながら眺めていたのでした。
帰りの電車では……同行の人々は全員疲れきってうたた寝をしておりました。私もまたそれなりに疲れていたはずなのですが、どういったわけかそれほど眠いわけでも
なく、仕方がないので真っ暗闇の街中などを眺めていました。
それにしても思うのは、やはりココまで遠いところに来ると言うのは、ある意味「奇跡」のようなものであると思うのです。
普段、精神論みたいなものを振りかざし、「遠くに行くって言うのは、少しばかりの路銀と、そこに行くと言う気持ちだ」とワケのわからないことを言って、晩秋の時期に
いきなり海を見に行ったり片道数十キロからの道を自転車で駆けてみたり(当時は免許を持っていなかったので)したものですが、それは逆に言えば自分でどうにかできる
レベルまでしか通用しないのですね。
たとえば、宇都宮。東京。名古屋。三重。ちょっと古いところでは鳥取。そして広島。
宇都宮は一応、車で行ったことがあります。東京だったら何とかなるかもしれません。ただ名古屋や三重となると、これは気持ちひとつで行くことは難しい。ましてや
鳥取や広島などと言うと、もはや別世界。電気は60ヘルツでNTTは西日本で味付けは薄くて……いやそんなことはどうでもいい。とにかく名古屋、はともかく、大阪
を越えたらもはや別な国のような気さえします。
ここまで来ると路銀と気持ちのほかに、チャンスが必要になって来ると思います。戦国無双ふうに言えば「天の理」と言ったところでしょうか。もう、私ひとりじゃ
どうしようもないような、世界と言う言葉で言ってもいいような大きなムーブメント。
年をとったせいか、最近はそういうものを考えるようになりました。
「もう一度、ここに来られるだろうか」
時々見える灯りを見ながらそんなことが頭を掠め、すぐに考えるのを止めました。考えても仕方がないと思ったからです。
同行の人々が目を覚ます頃、私たちを乗せた電車は原爆ドームの前を通り過ぎました。
この時間に、この場所を通ると言うこと。
カメラを取り出すこともせず、ただ気持ちだけでその光景を眺めていました。
そして居酒屋で旬のサバを食らい、黒糖焼酎を飲みまくり、冷房がやけに効いていて少し寒い思いさえしながら、最後の夜はふけていくのでした。次回、いよいよ
最終日。いよいよ物語が動き出すのだ。……
(夢枕獏先生なら、ここから5冊か6冊くらい軽く続くのでしょうが、私はそんなことはありませんので、どうぞ次へお進みください)
つづく。
もどる。