中近現代アレコレ平和祈念探方――広島・宮島行 Aug.12-15 2007 
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第七章 「永遠の記憶」

 広島駅から路面電車に乗ってゴトゴト……「原爆ドーム前」に降り立つと、そこには写真で100回以上見た例の建物がありました。

 わざわざここで書くこともないのですが、元々は広島県産業奨励館という建物だったそうです。それが8月6日に投下された新型爆弾によって吹き飛ばされ、 こんなになってしまったということで、「小」学生の頃から幾度となく聞かされてきたことでした。

 今回はあくまでも旅行記であり、世界遺産登録についての意義とかアメリカとか中国とか何とかかんとか、思想的なことを語る場ではないので、あくまでも実際に見て 感じたこと、わかったこと、それから私自身の記憶のこととかを語ります。あくまでも事実+感想のみ。そう前置きして、書いていきたいと思います。そうじゃないと、 自分自身、見えなくなっちゃいそうなので……。

 実際に見てみた原爆ドームは……建物からしばらくの区画が立ち入り禁止になっており、「入るとセキュリティが作動するから入らないでね」といった立て札があり、 なんだか物々しくなってるなと言ったところでしょうか。あと、いつのまにかユネスコ世界遺産に登録されていたんですね。

 ……ちょっと待て。いつのまにかって言うか、もう10年以上前に登録されているようですね。私が修学旅行で行ったのは98年だから、すでにその時登録されていた というわけで……

 どうやらまたしても、私のボンクラ振りを発露してしまったようですね。おーはずかし。

 とりあえず私たちが行ったのは、割と遅めの時間だったのですが、やはり世界中からいろいろな人たちが来ていました。当然ながらでかいカメラを持った人たちも たくさんいるわけで、結構そういうところも気になっていました。あ、あっちの人はニコンだ。おっ、こっちの人はキャノンか。ふーん、そっちの人はコンタックス か……。いや、だからカメラはどうでもいい。

 モニュメントのそばの解説などを見ると、ちょくちょく補修工事というか、ずっと残すための工事をやっているということでした。まあ、元々すさまじい大爆発で 奇跡的に残った建物ですし、極端な話いつ崩れ落ちてもおかしくないという心配はあるわけですから、いいことだと思います。当地では何かかにかと問題があるようですが、 残せるうちは残しておきたいというか、果てしなく残すようユネスコに認めさせたのですから、意地でも残していかなきゃならないでしょうな。ジゴロ次五郎ふうに言えば 「維持っていうか意地〜!」といったところでしょうか。ダメだ、ちっともうまくない。

 そこから川沿いに、平和祈念公園へと向かったわけですが、その川、その橋を見た時、たまらずシャッターを切りました。

 あまりその時、同行の者には語りませんでしたが、たまらぬ何かがこみ上げ、記憶がフラッシュバックしていました。

 今から9年前。1998年。私が高校2年生の頃でした。


 第八章 「教えられた8月6日」

 私の17歳は、あまり記憶がなく、そのためあんまり大したことのない時間だったのかもしれません。ただ事実としては、同年8月には鳥取県米子市に、何月だったか は忘れましたが(秋じゃなかったかな)ここ・広島に来たのですから、結構いろいろやっていたようです。なのに記憶がないとはつくづくボンクラな話なのですが、 修学旅行の記憶は割とあります。

 その修学旅行で広島に行くための予習、というわけではないのですが、当時の英語の教科書で佐々木禎子という人のことを勉強しました。2歳の時に被爆して、 小学校ではこれといったこともなく元気に走り回っていたのに、それから10年くらい経ってから、白血病で亡くなったという風に習ったのですが、まあ間違ってはいないようですね。 あとは病床で折り鶴をたくさん折ったということも、英語で習ったような気がします。どこの教科書だったのかな。

 私の記憶で「原爆」というキーワードに反応するのは、いつもこの人の記憶でした。今でもそのことはよく覚えています。

 「原爆の子」の像を見た時、その記憶はよりいっそうのリアルさを伴ってよみがえってきました。

 ――9年前。バスでいきなり平和祈念公園まで乗り付けて、いきなり原爆の子の像を見た時には、逆に感じられなかった何かを深く感じることが出来たような気がします。 それはたぶん、何も考えないで流れるままに生きてきた17歳と、多少は漕いで生きてきた26歳の違いでしょうね。

 でもってこういうことがあった、という事実を知ってどう思うのか。そして、どうするのか。それは本当に、その人の作ってきたパーソナリティによるものでしょう から、どう思えとかどう考えろとかということは極力言いたくありませんが、ともかく私は感慨深いというか、これからもずっと深い、積極的に考えることはなくても 忘れることは出来ない記憶として残り続けることでしょう。


 今回は時間的なこともあり、近くにある平和祈念資料館を見ることはしませんでしたが、こちらは今でもずっと覚えています。これも9年前のことです。

 その時は確か、実際に被爆した人の話を聞くことが出来た気がします。気がしますというか、そうでした。

 その話をいまさら思い出して、どうこう語ることはしません。誰かに語って聞かせることでもないですし、旅行記の趣旨からも外れるからです。

 ただ言えるのは、この場所は遠く離れた岩手の私にとっても、私が生きている限り決して消えない深い、誰にも言わないし言わせない気持ちにさせる場所であると いうことです。そう何度も来たいわけではないのですが、もし来ることがあれば……また……。

 
 第九章 「酸っぱい、辛い、甘い、……」

 さて、ここからは原爆のことは一切関係なく、ひたすらこの晩に食べたタイ料理のこととかを書きたいと思います。

 同行者の希望でこの晩はタイ料理を食べました。タイ料理って言うとトムヤムクンぐらいしか知らないのですが、とにかく酸っぱくて辛い食べ物というイメージが ありますわな。特別に私は辛いものが得意というわけではないので、少しく不安な気持ちもなくはありませんでしたが、まあとにかく熱くて辛くてうまいですね。

 ただやはり辛いものが苦手なために、そればっかりというわけにはいかず、ココナッツベースの激アマ・カクテルを飲み、辛いものを食べてヒィヒィ……カクテルを ゴクゴク……で、また食べてヒィヒィ、ゴクゴク……うーん、タイ料理、すごい。そしてそのすごさは、翌朝ホテルの一室においてなお猛威を振るい、手加減無用の 真剣勝負は私の凄絶なKO負けと相成ったわけでした。やはりタイはすごい。宗教も食べ物も格闘技も最強です。疑るかァ!!!

 ついでに私たちが投宿したホテルの近くの町並みについて。

 大きな通りからキリンビールの看板がキラキラ輝く通りに一歩踏み込むと、そこはまさに歓楽街。椎名林檎の歌のような世界であり、前日のホルモンも三日目の居酒屋も みんなこの中にありました。そして居酒屋だけではなくパチンコ屋もゲーセンも風俗案内所もアダルトショップも個室ビデオもあり、さながら「龍が如く」の神室町の ような有様でした。

 そんな賑やかな町並みの中にドンとあるホテルはこのお盆期間中にも空室があるのか、いきなりやってきてチェックインする人々がロビーをにぎわしていました。 ちなみにここには伝説? のファミコンステーションがありました。ほら、旅館とかで見たことあるでしょ? 100円10分で「ダックハント」とか「1942」とか 「ワイルドガンマン」ができるアレですよ。あれのシャープが作ったやつ。

 とりあえず200円で20分、「高橋名人の冒険島」や「マイクタイソン・パンチアウト!」など、絶対に料金内で終わらないゲームをプレイ。「ワイルドガンマン」 は絶対に3面でやられていたのですが(撃っても死なないやつが出てくる)、今回は見事リベンジを果たすことが出来ました。……基本的に常時動いているものではない ので、この日一度だけでしたが、プレイできてよかったです。

 それから、このホテルの近くには温泉がありました。温泉というか温泉を使った公衆浴場という感じなのですが、ともあれホテルに入っている人はサウナを使うために 追加料金がいらないと言うことなので、それならということで入ってみると、そこは割合狭くて、地元のワイルドな男たちが集う熱い場所でした。色々な意味で。

 とりあえずジェットバスと薬湯とサウナ。構成はそんな感じでした。本当はもう少しゆっくり入っていたかったのですが、水を飲むことが出来なかったため、またしても 早めに離脱。たぶん二度と行くことがないんじゃないかとは思いましたが、こういう場所もあるんだと少しく感動しました。知らない場所だから、何でも面白いんですよね。

 というわけで二日目の夜はSMAPxSMAPなどを見ながらふけていったのでした。3日目はもうひとつの世界遺産、宮島です。


 つづく。

 ひとつもどる。