私と新しい刺激――西尾維新 『少女不十分』論


 2013年は「過去と向き合い、これを乗り越える」年である、とブログで何度か書いたことがありますが、これは別に初めからそうしようと思ってそうしたわけではありません。身体的な意味では以前からやってきたことですし。

 今年の2月にPCが故障して、することがないので家にある「いつか読もうと思っていた」小説を片っ端から読んだ。一通り読み終えたあとは「シバリョーぐらい読まないとみっともねえな」といって『竜馬がゆく』などを読んだ。小学生のころに名前を知ったものの、あまりの長さに気持ちがくじけてしまった『帝都物語』を最後まで読んだ。……
 
 気がついたら、今年だけで100冊以上の本を読んでいました。
 
 それを振り返ってみた時に、これも「過去と向き合い、これを乗り越える」ことなんだな、と思ったわけです。
 
 そういう、読んでいないことに負い目を感じる最後の作家が、この西尾維新氏でした。そしてたまたま2年前に買い求め、ずっとその場に置いていたのが『少女不十分』でした。
 
 
 
 
 西尾維新氏の名前は、2011年当時高校生だった弟者の友達から聞きました。『化物語』を初めとするナントカ物語シリーズや、ジャンプの連載漫画『めだかボックス』の原作者として、十代の若い人たちから支持されているらしい。そういうことは知っていました。
 
 なぜ『化物語』ではなく『少女不十分』なのかというと、ちょうどその日に本屋で平積みにされていたからです。そしてその日は『新・餓狼伝 巻之二』を買った日でもあるので、その余勢を駆って一緒にレジに持っていったのです。
 
 それから2年の月日が流れてしまいましたが、一通り読み終えた今にして思うと、これはどうしても必要な2年だったな、と思います。
 
 分量も密度も、想像をはるかに上回る度合いであって、読み進めていくのに大変な労力を要しました。それは「読みづらい」という意味ではなく、つい本腰を入れてしまう――そうしなければいけないという緊張感が漂う、そんな文章だということです。
 
 あと、「この人はきっと、すごく頭のいい人だな」と思いました。それと同時に高潔な品性を持ち合わせている、と。……これはあくまで私の感想なんですが、きっとこの人は、自分の考え方とか感情の動きとかを、とにかく理詰めで説明しなくちゃ気がすまない人なのだと思ったのです。
 
 その文章は、もはや偏執的であるという印象を持ちました。用心深く言葉を並べて想定される様々な批判や非難? から身を守る防衛線を張り、十分に安全を確保した上で進めていく。『めだかボックス』を読んでいた時もそんなことを思ったのですが、この本を読んでそれを確信しました。なお、繰り返しますがこれはあくまでも私個人の感想です。
 
 

 物語のあらすじは……って、これを物語といっていいのかどうかわかりませんが。何せ全体的な流れとしては、30歳になった西尾維新氏自身が10年前にあった出来事を今の視点から思い出し思い出し語るという風に進んでいくのですから、もしかしたらノンフィクション作品なのかもしれません。そういったジャンル分けは私にはできないので、これ以上、そのあたりのことは触れませんが。
 
 少女はあくまで、ひとりの少女に過ぎなかった…、妖怪じみているとか、怪物じみているとか、そんな風には思えなかった。―西尾維新、原点回帰にして新境地の作品。  
 
 Amazonでもこのくらいしか解説がないので、あらすじについては私も多くを語りませんが、最初から最後まで視点は2011年現在、30歳の西尾維新氏が過去を語るという体裁です。西尾維新氏と私は同じ1981年生まれなので、そういう意味でも西尾維新氏と結構感情を通わせられるような気がします。
 
 さらに言えば、こうした文章の書き方こそ20歳そこそこの時代の私が目指してきたものであり、それを非常に高度なレベルで作り上げていることに、私は激しく戦慄しました。「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」とは柳田国男が『遠野物語』で序章で書いた言葉ですが、私はこの『少女不十分』という本を読んで戦慄してしまったのです。
 
 ……そして、たくさんの本を読むことでようやく小学生時代から現在までの精神的な道が完成した今、私の心はこの西尾維新氏の世界にとどまることができなさそうです。この言葉尽くしで整然かつ清潔な西尾世界にとどまるには、ちょっと感情的過ぎるような気がするのです。
 
 西尾維新氏はしばしば本文の中で「感情が一部死んでいる」と自分のことを表現していました。感情を言葉で補うことで、きっとこんな世界ができたのでしょう。……かつての私も、そういうところがありました。あまり笑ったり泣いたり怒ったりすることをせず、物事をできるだけ理性的に捉えようとしていたのです。
 
 でも、ここ数年の私は逆に感情を呼び覚まそうとするような生き方をしてきました。特に2012年は絵を見に行ったり舞台を見に行ったり、さらに中邑真輔選手の「イヤァオ」や「たぎったぜ」などの言葉に刺激を受けまくりました。
 
 理論による高度な物語の組み立ては必要だと思います。ただ、私としてはそうやって組み立てておいて、最後にそれをいっぺんに爆発させるような一枚上の刺激が欲しいのです。西尾維新氏の高度な文章にうっとりしている人たちの前で「ヒャッハー!」といって飛び跳ねるような。「イヤァオ!」といって全身をくねらせるような。それが今の私が求めている境地です。
 
 


 これから先、きっと私は西尾維新氏の物語を読むことはないでしょう。たぶん『めだかボックス』も読めないんじゃないかなと思います。私はもう、西尾維新氏のように高潔な人間ではないのです。綺麗な水には住めないのです。
 
 ですが、この『少女不十分』との邂逅は、私にとって大変意義のある出逢いでした。20歳の頃のまま止まっていた記憶を動かし、32歳の現在までの道のりをつなげてくれたことは、最高にありがたいことだと思っています。とにかく非常に重要な一冊といえるでしょう。
 
 そのことを忘れたくないので、今回こんな文章を書きました。
 
 あまり思い出したくないけれど、忘れたくもない。
 
 思いっきり矛盾した言葉ですが、これが感情です。言葉では説明しきれない感情。これでいいんです、これで……。

(2013年12月10日作成、2023年1月27日修正)


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