私と泰平への道のり――山岡荘八「徳川家康」論


歴史小説の面白さというのは、なまじ実在の人物だけに、それを書く人によって随分と印象が変わることでしょうか。というよりも、そう言わせてほしいなと思うのです。

もしもこれが歴史それ自体を語るのであれば、あまり主観が混じってはいけないような気がします。事実を厳しく検証し、それがどういうことなのかを評価する。そういうことが大事だと思います。

でも、小説はどちらかというとエンターテイメントですから。作家の腕で一般的なイメージを膨らませたり、逆にひっくり返したり。それによって感動したりすることがあるから、歴史小説というものが面白いと思うんですよね。

私にとって山岡荘八先生の『小説徳川家康』は、まさにそんな感じでした。

ここで書くのは、あくまでも『小説徳川家康』を読んだ上での感想です。「本当の家康はそんなんじゃない」というご意見もあってしかるべきだと思います。憤慨も嘲笑も結構です。でも私にとってはこれが徳川家康です。そういう思いをまとめたのがこの文章です。


小説で読む日本の歴史


この物語はとにかく長いので、あらすじを書き始めると大変です。なので思いっきり端折って申し上げます。導入は家康公の生母である於大の方の縁談のあたり から始まります。それから桶狭間の戦いなどを経て大坂の役を終え、更にその後のちょっとした悶着を経て天寿をまっとうする日まで語られます。全26巻。ギ ネスブックにも載った世界最長クラスの小説です。

ただ、ずっと家康公を追いかけているわけではなく、時々別な人に焦点が当てられっぱなしになることがあります。たとえば羽柴筑前守さんが北の庄にいる柴田権六・・・じゃなくて修理どののところを攻めるあたりです。

正直なところ、この小説を読んで、ようやくこの時代の歴史の流れがわかった気がします。戦国無双などのゲームで取り上げられるような大きな戦いはともかく、その間の色々な流れとかは、全然知りませんでしたからね。

この頃(豊臣政権が成立した頃)の日本は、従来のポルトガルやイスパニアだけではなく、イギリスやオランダからも人が来て(彼らは従来の南蛮人に対して紅 毛人と呼ばれた)、旧教と新教の小競り合いが起きたり、朝鮮出兵を強行したりと、まったくもって不安定な状況だったのです。

そんな屋台骨グラグラの日本国で起こった関ヶ原の戦い、そして大坂の役。さらにその後にも東北の雄・伊達陸奥守と家康のたくさんいる息子の一人・松平忠輝 が秘めている野望。70歳を過ぎて『大御所』となっても、まだまだ楽隠居とは行きません。そして最後の最後まで平和な世を作るために全身全霊を捧げ、この 世を去っていった家康公。

連載当時は、完結までに20年かかったそうです。私もひと通り読み終えるまで(数ヶ月の休止期間があったとはいえ)半年以上かかりました。それだけに、読み終えたときはなんだか大きな充実感がありました。


欣求浄土の名のもとに


これは物語全体のテーマでもあるのですが、本編での家康公のモチベーションは「平和な世の中を作りたい」という一点につきます。それは旗印としていた「厭離穢土 欣求浄土」という言葉にもあらわれています。

これは桶狭間の戦いのおり、敗走した19歳の家康公(当時は松平元康)が故郷岡崎の大樹寺にて自害しようとしたところを、そこの住職が咎めたという歴史に 基づくものです。その住職の助けを得て何とか死地を脱した元康さんは、以降は自分の野心のためというよりも神仏に従うために戦うようになりました。

確かに結構短気なところがあって、三方が原の戦いでは滅亡寸前まで追い込まれたこともありました。壮年期?老年期になっても、カーッとなると家臣を怒鳴り つける場面もあります。でも、その中心にあるのは平和への思いですから、できれば戦争にならないように世の中の流れを持って行こうとします。

その点において、いぬがみが大きく誤解していたのが、大坂の役のあたりのこと。多分、我が国の大半の人がそう思っているでしょうが、これは決して豊家を滅亡させようとして家康公がふっかけたものではなかったのです。

もともと豊家と徳川家は親戚関係でした(主従関係ではなく!)。太閤側からは、すでに結婚していた自分の妹を無理やり離縁させて家康公に嫁がせたり、自分の母親を人質として差し出したりしましたし、反対に徳川側では秀頼公のところに孫娘の千姫を嫁がせたりしました。

さらにいえば、若き夫婦の母親は同じお市様の腹から生まれた姉妹同士だし、家康公自身は出来れば両者共存でやっていきたいと思っていたのでした。

お寺の鐘に自分を呪う言葉があるとか何とか言って、大坂城を出ていくよう「難癖をつけた」 と言われていることも、そうじゃないと秀頼公を担ぎあげて戦争を起こそうとする者たちがいなくならないから、という考えのもと。移住先もちゃんと考えていたし、ふさわしい肩書き(関白)も用意していました。

そんな努力もむなしく、戦争を回避できないとなれば、「せめて秀頼母子だけでも」と思い、密かに手を回していたものの、これも配下の武将たちに思いが伝わらず、結局自害させてしまいます。この時の家康公の心情、いかばかりか・・・。

そういうわけで、生涯を平和国家樹立のために捧げた家康公。その遺志は二代秀忠・三代家光と受け継がれ、以降200年以上に渡る『江戸時代』として実を結んだのでした。


みんな、平和のために戦う


と、思いっきり家康公の話をしてしまいましたが、後に山岡先生はエッセーで「家康が平和国家を樹立できたのは、その前に信長・秀吉がある程度の地ならしをしていたから」という意味合いのことをおっしゃっていました。いわく「日本株式会社の初代社長、二代目社長」と。

ナニナニ無双の第六天魔王のイメージしかない方には到底受け入れられないかと思いますが、 そうなんです。信長公も豊太閤も、戦のない世の中を作ろうとして努力していたんです。ただ、その時代によって最適なアプローチが違っていただけで、その志はみんな一緒だったのだ、ということです。

もっとも、中には「この世から戦がなくなることはない」と最期まで言い続けた真田父子や、小利口なばかりに人を信じることをせず、そのために身を滅ぼした 石田治部どののような方もいらっしゃいますが、主要な人物がそういう理想を胸に生きているので、自然と物語の雰囲気もそうなります。

そして、私も平和の尊さが骨身にしみました。

戦争はいつも、色々なものを破壊します。せっかく育てた作物も、ひとたび戦となれば人馬に踏み荒らされて台無しになってしまうし、そんなことばかりでは人 の心も荒みます。男たちはある程度、自分が好きで戦うからいいでしょうが、ともに暮らす女性たちにとっては、つらいことばかりです。

兄の都合で嫁がされたり引き離されたりしたお市様なんかは言うまでもありませんが、小説ではもっと時代が下った淀君なんかも、割とそんな感じです。確かに 超・勝気な性格で、そのために豊臣方の運命に大きな影響を与えた事実はありますが、見方を変えれば淀君もまた戦乱の犠牲者なのだ・・・と思いました。

そういう世の中を変えたい。戦争がない世界を作りたい。そういう思いを受け継ぎ受け継ぎ、家康公の代になってようやく基礎ができた。さらにその後、徳川家の三代目までかかって作り上げられた平和国家建設の物語なのです。


戦争を知らずに僕らは育った


ただ、戦争がなければないで、家康公が頭を悩ませる人間が出てきます。それは、なまじ戦争を体験していないためにその残酷さや凄惨さを知らず、ひたすら勇ましくてかっこいいものと憧れ、戦争をしたいと思う若者たちが出てきたこと。

時代は違いますが、私も思い当たるところがあります。言われなければ気づきませんでしたが、私もまた随分とそういうのに憧れ、そういうのを漫画やらゲームやらで何度も仮想体験しました。

でも、それってあんまり、よくないことだなって思いました。

平和に慣れた国は、戦争ばかりやっている国と比べて弱い。攻められるとあっという間にやっつけられてしまうから、普段から戦争ができるようにしなければい けない。――そんな風に思っていたこともありますし、今の政権になってから、そんな風に思っている人もいるかと思いますが、そういう考えは厳しく戒めなけ ればいけないなと思いました(私自身に対して)。

誰がどんな思想を持とうが、この国はそういう自由が保証されている平和国家ですから、いいと思います。ただ、私は平和を愛しています。戦争が起こった時に勝てる国づくりも大事ですけど、そもそも戦争にならないような政治をする国が一番いいと思うのです。


おわりに


題材にした小説がとてつもなく長かっただけに、この記事も大変な長さになってしまいましたが、ともかく面白かったです。面白いというか、生きる上での基本理念レベルで大きな影響を受けました。

このあと、徳川家の兵法指南役として家康公53歳の頃に召し抱えられた柳生宗矩の物語である『柳生宗矩――春の坂道』を読みましたが、これはこれで抜群に面白かったです。どうやら、すっかり山岡荘八先生のファンになってしまったようです。



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