質素な住まいと豊かな心
――高村山荘とその周辺の施設を訪ねて(2011年11月18日)






 ようやく……


 高村山荘というのは、芸術家・高村光太郎氏が晩年(戦後の7年間)を過ごした山荘です。岩手県花巻市の中心街からかなり離れた山のふもとにあります。

 ……というものがあることは知っていましたが、恥ずかしながらこの犬神、生まれてこの方30年ほど生きてきて、その程度の知識しか持ち合わせていなかったのです。

 今回実際に行ってみて、知識が深まったことはもちろん、それまでは知らなかった感動もたくさん得ることが出来ました。色々と感じるところがたくさんあったので、 今日はそのことについて書きたいと思います。


 それはトイレから始まった!?


 じつは、最初からここに来よう! と思ってきたわけではありませんでした。本当は同じ花巻市の大沢温泉に行こうと思っていたのです。

 その運命の分かれ道、というか交差点。右折すれば花巻南温泉峡、すなわち当初の目的どおりの大沢温泉コースだったのですが、よく見るとそこからわずかな距離で その『高村山荘』がある、ということでしたからね。

 「ちょっと、一目見てから、行こうかな」

 そう思って交差点を直進してしまったのでした。


 側道に入り少し進むと、大きく開けた駐車場と売店さらにトイレがありました。ちょうど少しもよおしていたところだし、とりあえずトイレを借りようかと思って車を 下りたのですが、その瞬間に「おはようございます」と駐車場内を掃除していた職員に挨拶をされてしまいまして。

 当然私も挨拶返しとなったわけですが、こうなるとトイレだけ借りて帰るわけにはいきません。正直なところ入場料を取られることも、この時点で初めて知ったのですが、 まあこれもご縁と言うもの。とりあえず一通り見て、まだ時間があるようなら、温泉に行こう。そういうプランに切り替えていくことにしました。


 それは自然との共存


 いよいよ目にすることになった『高村山荘』は……かなり質素な建物でした。

 7.5坪ほどの土地に建てられたオリジナルの建物は土間と囲炉裏があるだけで、外との仕切りは障子一枚だけ。壁もかなり粗末なつくりで、夏は虫が、冬は吹雪が 入り込んできて大変だったと言います。

wikipediaでは「戦争中に戦意高揚のために多くの詩を作ったことへの贖罪の意味があったとされる」との記載があります。なるほど、まあそうなのかもしれませんが、 この場所での生活も高村先生はそれなりにエンジョイしていた? ということを、このあと高村記念館で知ることが出来ました(後述)。

 ちなみに現在は没後に有志が1本1本柱を持ち寄って建てられた套屋(とうおく)と、昭和52年に建てられた「套屋の套屋」の2段構えで保護されております。私たちが 入れるのはその「套屋の套屋」までで、入ってすぐのところにあるスイッチを押すと音声ガイドを聞くことが出来ます。山荘をぐるりと囲む回廊のようになっていて、 いろいろな面から山荘を眺め、さらに壁に掲げられたパネルを読めば、きっと理解が深まることでしょう。

高村山荘外観。


 それは衝撃の事実


 

 澄み切った青い空の中に消え残る月に驚き、思わずケイタイカメラを空に掲げながら道を行くと、石碑がありました。






これは『雪白く積めり』という詩の原稿用紙を 拡大して、石碑にしたもののようです。正直なところ、どれほど地図を見てもどこにあるのかわからなかったのですが、公園内の整備をしていたオジサンに 「あそこは是非見に行ってください」と言われてようやくたどり着きました。








 そのあと私が行ったのは『高村記念館』。こじんまりとした建物ではありますが、中には彫刻家・書家・画家……と多面的な才能を持っていらした高村先生の何たるか を5分で理解することができるような、そんな内容でした。

 何せ平日の午前中ということで、お客さんは私ひとりだけ。だからなのかわかりませんが、職員の人が展示物について色々と説明してくれました。そのおかげで、今まで 遠い世界の人だった高村光太郎と言う人が、急に身近に感じられました。

 驚いたのは、高村先生の身体の大きさ。なんと190センチくらいあったそうで、着るものもオーダーメイドじゃないと間に合わなかったそうです。さらにいえば、足の サイズも31センチくらいあったそうで、もしも実際に相対したら圧倒されるかもしれないな、と思いました。

 あとは、ここに来るまでは、仙人みたいに人と交わらない生活をしていたのかな……と思っていたのですが、そんなことはなかったんですね。近所の小学校の子どもたちや 周辺の人たちとのコミュニケーションをよく取っていたようで、中には小学校の学芸会にサンタのコスプレをして行ったという写真がありました。

 こうしてみると、ここでの生活も(不便なことや大変なことはたくさんあったでしょうけど)決して暗く陰鬱としたものではなく、それなりにエンジョイして いたんじゃないのかな。ここに残っている手紙や写真を見ると、そんな風に思ったのでした。


 オミヤゲといえば、やっぱりポストカードでしょう。……と思ったのですが、急遽立ち寄ったために持ち合わせがあまりなく、いい言葉の入った手ぬぐいを買ってきました。 いい言葉って言っても『親父の小言』じゃないですよ。高村先生が近所の学校の子どもたちに向けて語っていた言葉をプリントしたものです。

 ちなみに職員の方が言うには「新しいグッズを開発したいけど、なかなか……」難しいことがあるようです。そしてグッズを入れた袋は、さっき入り口でもらった簡素な 地図を裏返して袋状にした「手作り感あふれる」シロモノでした。

 なんだか、色々とあったかい気持ちになれたのでした。


 それは美しき自然




 順路に従い、階段を上って小高い丘にたどり着きました。そこは高村先生がよく来ていた場所だそうです。月の綺麗な夜などには、ここから亡き妻・智恵子の名を 大きな声で呼んだと言います。ならば私も、と思ったのですが、私の妻は智恵子ではないし、そもそも結婚さえしていないので中止しました。

 まあ確かに声をあげたくなるくらい綺麗な景色でした。今はもう晩秋もいいところで、ほとんどの葉っぱが散り落ちてしまったのですが、もう少し早ければきっと、 さらに綺麗な景色だったのだろうな……と思いつつ、山を降りました。

 戻って再び高村山荘周辺を歩きます。改めて、知識を得た上で山荘を見ると、じつに狭くて質素な内装なんだな……と思いました。このとき、第一套屋が 居住スペースと井戸をまとめて囲っていることに気づいたのです。

 山荘のまわりには、水芭蕉園があります。もちろんオフシーズンなので、花はひとつも咲いていません。ただし、かつて高村先生が自らの食べ物を作るために 耕した畑に植えられたパンジーは、とても綺麗に花を咲かせていました。

  独居自炊。晴耕雨読。ほとんど自然と直結したような建物の中で、高村先生はどんな暮らしをしていたんだろう。山荘の周りをグルグル歩き、次の目的地に 向かって歩いていく途中、そんなことを思ったのでした。


 それは「資料館という名の倉庫ですかここは!?」


 最後に行ったのは、同じ敷地内ではあるものの外れの方にある『花巻市歴史民俗資料館』。どこの町にもひとつはある、地元の人々の暮らしをまとめた資料館です。

 何を隠そうこの犬神、なかなかのレトロマニアで、こういった各地の民俗資料館が大好きなんです。同じチケットでここまで見られるなんて……と、もはや温泉のことは 忘れることにして、ウキウキと扉を押し開けました。


 ……館内は、真っ暗でした……。


 あれ? 休館でした? 失礼しましたー。つって、そのまま帰ってもよかったのですが、せっかくここまで来たんだから! と意を決して事務室の奥にいる職員に 声をかけました。そうしたところ、どうやら節電中だったみたいです。

 とりあえず照明をつけてもらって、簡単に展示物の説明をしてもらい、「特に順路とかはないんで、まあ好きなように見てください」と言われたのでフラフラと ひとり展示物を眺め歩く私。どうやらここでの一番のウリは『花巻人形』だそうです。

 この『花巻人形』というのは、享保年間(だいたい300年位前)に生まれたもので、粘土をこねて素焼きにしたものに色を塗って作ります。特徴としては、 梅、桜、牡丹など春の花々が、とても鮮やかに描かれていることでしょうか。そのルーツは仙台の堤人形、さらに京都の伏見人形までさかのぼるそうで、なかなか風流なものなのです。

 その後は当時の人が着ていた服や農具と言った、この手の資料館の定番展示物を眺めつつ、『資料室』へ。……ここが、民俗野郎の私のハートをガッチリと掴む、 すばらしい空間だったのです。

 四段のがっしりした木製の棚に並べられた、様々なもの。服であったり本であったり日用品であったりと……いやはや、とにかく数が多いこと多いこと! どうやら 地元の人たちから寄贈してもらったものらしいのですが、それをそのまますべて展示しているようなのです。

それぞれに寄贈者とコメントを書いたタグがつけられています。




本当はこういうところで写真を撮っちゃいけないとは思うのですが、何せ展示室と言うよりも資料室といった雰囲気で、しかもだれも人がいないものだから、こっそり 撮影してしまいました。

 たぶん、このメッセージも寄贈者が書いたのでしょうね。

 「ねばる汁で絶命。」

 絶命。絶命。なんか、この言葉で文章を締められると、妙に怖い感じがします。そのあまりの衝撃に、こうして写真を撮影してしまった次第です。




 あとは、戦前の服とか楽器とかに「この○○の持ち主は戦死した」とかというコメントがつけられているものがあります。やはりそういう時代だったのです。 でも、そういったものをこうして寄贈してくれたからこそ、縁もゆかりもない通りすがりの私がしばし感慨にふけることができるのですから、ありがたいものです。

 そして、誰が寄贈したのかわかりませんが、昭和40年代の小学生向けの雑誌などもありました。これも本当は手を触れてはいけないのかもしれませんが、ついつい 読んでしまいました。さすがにこちらの中身を写真に撮ることはしていませんが、民間の出版社が出した社会科の資料みたいなものなので、色々な広告もあります。

 昭和43年ですから、私が生まれる10年以上前。リアルタイムでその時代の空気を知っているわけではないのですが、当時の子どもはどんなことを考えていたのか。 パラパラとページを繰りながら、静かにそんなことを思ったのでした。


 それは新しい世界への道(おわりに)


 正直なところ、『高村山荘』という場所がこれほどまでにすばらしい、今もなお管理が行き届いた場所であるとは思っていませんでした。岩手町にある『北緯40度公園』 のように、今はもう荒れ放題の、1分で用が済むような場所だと思っていたのです。

 今回、そういった誤解が完全に吹き飛びました。やっぱり実際に見てみないとわからないものが、たくさんあるものですね。高村先生および花巻市の人たちには土下寝で 謝罪したい気持ちがありますが、その代わりにもっともっと高村先生のことを理解しよう! と思いました。

 当然ながら、高村山荘、もう一度も二度も来る予定です。今度は春とかですかね。もっと花が咲いて、綺麗な時に来ようと思います。そして、カメラもちゃんと持って 行きます。

 以上、受付の方に、高村記念館の方に、民俗資料館の方に、大きな感謝を込めて。


 
2011年11月30日




おまけ:

受付にたくさんあった他美術館のチラシの中に、『魔女魔女ワールド』と題した、ほうきにまたがった黒服の魔法少女の姿が。 よく見るとそれは『魔女の宅急便』のキキでした。……そういえば、まだ読んでなかったなと思った犬神、帰り道で早速第一巻(古本)を購入。 楽しく読んでいます。原作は全6巻だというので、 一通り読んだら映画も見てみるとしましょうかね。ええ、いまだに見ていないんですよ、例の映画。



     



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